
食べること、出会うこと、生きること。
昨夜の雨はもう過ぎ去り、バルセロナにはまた太陽が降り注いでいる。夜は上着を一枚羽織るほど涼しいけれど、日中は半袖で過ごせる。外では、バルセロナの夏の匂いがする。この場所の夏に魅了されて、今日の自分がある。あの懐かしい匂い。僕の価値観を、人生を変えた、この場所での夏。その訪れを静かに感じながら、これからここで起こる、まだわからない未来に心を躍らせて過ごしている。
ここで暮らし始めて、まだ数週間。それでも毎日のように新しい発見があって、街を散歩していると、この街が人にとってどれほど素晴らしく、面白い場所なのかに気づかされる。
そのひとつが、食べることだ。
バルセロナには食材の選択肢がたくさんある。多くのスーパーは、誰がどこで作ったのかもわからない遠い土地の輸入品ではなく、自社農場や地元の農家から、出どころのはっきりした食材を取り寄せて売っている。棚には有機の野菜や果物がいくつも並んでいる。
パスタも本当に素晴らしい。バンクーバーに住んでいた頃、現地で知り合った日本人の家で初めてカルボナーラを食べて、それからパスタが大好きになった。レシピを教えてもらって自分で作ることもあれば、レストランにカルボナーラがあればいつも頼んだし、ローマまで行って有名な店をいくつも食べ比べたこともある。カルボナーラだけでなく、ボロネーゼやオイル系のパスタも好きで、メニューにパスタがあればよく食べてきた。でもパスタを食べると、いつもお腹が張ったり便秘になったりして、体の調子がどうしても良くなかった。これさえなければもっと食べたいのに、とずっと思いながら生きてきた。数年前にグルテンフリーのパスタと古代小麦を知って、それを食べるようになってから、あの不調がまったく起きなくなった。それ以来、パスタを食べるときはいつもグルテンフリーか古代小麦を選んでいる。
日本をはじめ、世界のどの国でも、美味しいグルテンフリーのパスタ、特に古代小麦のパスタを見つけるのは難しい。そういうときは泣く泣くパスタを諦めて、ステーキを選ぶことになる。でもバルセロナで驚いたのは、僕が求めているグルテンフリーや古代小麦のパスタが、スーパーですぐに見つかることだった。
通っているオーガニックスーパーには、グルテンフリーも古代小麦のパスタも何種類も置いてあって、もう棚のほとんどを買って食べてしまった。この前、散歩中に見つけた小さなイタリアンスーパーに思い切って入ってみると、奥の壁一面にイタリア産のパスタが並んでいて、見ているだけで楽しくなった。食べることについて、この街には健全なインフラが整っていると思う。
ここ数年、日本で定住と呼べるような暮らしをしていなかったので、基本的には外食をしながら生きていた。でもキャンピングカーで暮らしていた時期は自炊が中心で、日本中のスーパーに足を運んでいた。日本の大型チェーンのスーパーには、その土地の旬のものもたまにあるけれど、多くは海の向こうの大陸から運ばれてきた野菜や、もっと遠くから取り寄せた肉が「安い」という名目で並んでいる。そうやって僕たちが失っているもの、本来の価値のようなものを、ほとんどの人が意識しないまま消費しているように見える。グルテンのことも、精製された小麦のことも、あまり考えないまま棚の前を通り過ぎている。グルテンフリーのパスタは普通のものの数倍の値段がするから、ただ高いという理由だけで選ばれないのだと思う。
でもバルセロナのスーパーには、地産地消の食材も、農家直送の野菜も、厳しい基準をクリアした果物や肉も、当たり前のように並んでいる。しかも値段は日本よりずっと安い。アーティチョークやフェンネルのような初めて食べる野菜に引き寄せられて片っ端からカゴに入れ、果物も肉も買って、毎日それを料理して食べている。何を食べても本当に美味しくて、余計な味付けがいらないほど、素材そのものに味がある。じゃがいもがとにかく美味しくて、日本ではほとんど食べなかったのに、ここでは毎日のように食べている。パスタもいろいろ試しているけれど、一つひとつに違いがあって、美味しくて、楽しい。
バルセロナには素晴らしいレストランがたくさんある。でも同時に、いい食材で自分で料理を楽しむこともできる。ここは本当に、食べることを楽しめる場所だと思う。
食べること自体が日々の喜びになると、生きることへの幸福感が大きく変わる。この街に来て、それを実感している。そこに、降り注ぐ太陽と心地よい風が混ざり合った気候が加わる。これが人にとってどれほど良いものなのかも、もう体でわかってしまった気がする。人類の文明が育まれたこの地中海の街で、人はいったい何を思い、何を考え、何をしてきたのだろう。人は気候や食事で大きく変わる。それが心地よいものなら、考えることも、思うことも、行動も、きっと健やかになっていく。
この数週間で変わったのは、食べることだけではない。
たくさんの人に出会った。たくさん話して、たくさん助けてもらった。スペイン人だけでなく、東欧、アフリカ、南米——これまで出会ったことも、行ったこともない国で生まれ育った人たちがこの街に移り住んでいて、一人ひとりと話すたびに新しい発見があった。今ここにいられること、今日という日をこの場所で迎えられていることは、本当にたくさんの人のおかげだ。その人たちの顔が、バルセロナの風景と重なって、いつも鮮明に浮かぶ。
デジタル技術が発展して、世界が少しずつ無人化に向かっていく中で、同じ言語、同じ人たちだけがいる場所で生き続けていると、どこかすべてが空っぽに感じてしまうことがある。人と話しているはずなのに、何と話しているのかわからなくなったり、すべてが自動化された機械を通して進んでいったり。違いを共有することなく、同じ価値観の中で、そうでない人を排除しようとしたり。新しいものを受け入れず、これまでやってきたことを、変化を拒みながら続けたり。便利という名のもとに差し出されるものを受け取りながら、僕たちはそこで見失っているものに、たぶん気づけていない。
そういう場所から一度離れてみると、そのことに気づく。
わからない言葉を、どうにか伝えようとすること。相手の目を見て、その表情から感情を確かめながら話すこと。恥をかくこと。新しい文化を知ること。違いを知ること。その一つひとつが、デジタル技術や便利さと引き換えに失われていた、人として生きるということを、もう一度経験させてくれる。まだ数週間しか経っていないけれど、生まれ育った国から遠く離れた土地で実際に暮らしてみることで、日本のことを客観的に見られるようになった気がする。日本にいたときには想像もできなかった視点だ。カナダやオーストラリアに住んでいた頃も、同じように日本から離れて暮らしていたけれど、あの頃より少し年を重ねたぶん、違う目線で物事を見ているのだと思う。
それを、デジタル技術で仕事を続けながら、自分が今いるべき場所で実現できる。これがデジタルノマドの本質なのかもしれない、とふと思った。僕にとってバルセロナは、そういう街だ。オーバーツーリズムをはじめ大きな問題も抱えているけれど、それでも本当に素晴らしい街だと思う。
世界中から観光客が訪れ、世界中から移り住みたいと願う人がこれほどいるのには、確かな理由がある。これからもっとこの街のことを知っていきたい。そして、ここで生きる自分の人生がこれからどうなっていくのか。それを自分の目で見届けられることが、今はただ、楽しみで仕方ない。